2017年4月14日 (土)今週のホトバ
「アッラーの権利」とその「下僕の権利」
すべての礼賛はアッラーのために、彼こそが創造主であり、養育者であり、維持者であり、配給者であり、庇護者であり、すべての創造物の全てを統制する崇高な存在であります。
預言者ムハンマド様に祝福を送るとともに、アッラーから人類に遣わされたその他のすべての預言者にも祝福を送ります。またアッラーが預言者様と教友を、また我々を祝福してくださるように願います。
アッラーのことを意識しつづけることはとても大切なことです。なぜならアッラーを意識することによってのみ、今世と来世で素晴らしい生活が送ることができるからです。
クルアーンと言行録を通して、アッラーは我々の生活にかかるすべてのことを教えてきました。それらは2つに分けることが出来ます。「アッラーの権利」とその「下僕の権利」です。悔悟することによって「アッラーの権利」は認められます。「アッラーの権利」について、もし罪を犯したとしても、間違いを認め、悔い改めることによって取り戻すことが出来ます。
一方、「下僕の権利」については、何か間違いを犯し、それを後悔しても罪は拭い去れません。罪を消す唯一の方法は、その間違いを犯した相手から赦しを得ることです。
今日、この「下僕の権利」は軽視されていると言わざるを得ません。
我々は、礼拝、断食、喜捨、巡礼またクルアーンの読唱などの崇拝高位をすれば、我々の宗教に対する義務を果たしたと考えがちです。
我々の宗教は家に例えられます。四隅に一本ずつと中心に一本の五本の柱があり、四面に壁があります。壁が無ければ家は成り立ちません。同じようにイスラームの法体系は、四つにわけられます。
一つ目は崇拝行為の方法です。これには義務と自発的な礼拝、また喜捨や巡礼や祈念などが含まれます。
二つ目は、商業や、労働などの取引に関する法です。
三つ目は、家族や人との関係を良好に保つ法です。
四つ目は、全ての生き物に対する行動規範です。
相手がムスリムであるかそうでないか、近隣の者か遠方の者か、人間か動物か、精神的な創造物か物質的なものか、イスラームはすべてのこと教えます。
一つ目のアッラーに対する法は皆が理解していますが、他の三つも等しくイスラームの教えであり、こちらは見過ごされています。
例えを一つ。酒を飲む人を見れば、皆が彼を非難します。また飲んだ本人も罪の意識を感じることでしょう。しかし、例えば、陰口を叩く人はどうでしょう。その人は飲酒ほど避難されません。また本人も罪を犯している意識が無いでしょう。ところが、陰口を叩くのは飲酒と同じくらい重い罪なのです。陰口は「その下僕の権利」を犯しているのでむしろ飲酒よりも重い罪とも言えます。
聖クルアーン・部屋章(49)の12番にこうあります:
「信仰する者よ、邪推の多くを祓え。本当に邪推は、時には罪である。無用の詮索をしたりまた互いに陰口してはならない。死んだ兄弟の肉を、食べるのを誰が好もうか。あなたがたはそれを忌み嫌うではないか。」
陰口が罪だとしても、今日の世の中では普通の事になっており、なにか集まりがあれば誰かが陰口を叩きます。イスラームとは関係ない、と陰口を叩くことを軽視しています。そしてアッラーが我々の行為を見ていることを忘れています。
イヒサーン(完璧、卓越の意)という言葉がありますが、これを礼拝や祈願のときだけのものという誤解があります。預言者様はイヒサーンについてこう仰っています:
「アッラーの姿が見えているかのように崇拝しなさい。それが出来なければ最低でもアッラーがあなたを見ていることを意識しなさい」
これがイヒサーンの状態です。我々はすべての行動において常にアッラーを意識していなければなりません。
アッラーの崇拝にすべての時間を捧げている女性について、教友のだれかが預言者様に尋ねました。「彼女の運命はどうなるのでしょう?」
預言者様はその教友に女性が近所の人をどう扱っているか尋ねました。教友がいうところによると、その女性は人の扱いが悪く、疎まれているそうでした。預言者様は彼女は地獄に行く、と言いました。
また、別の女性で、義務の礼拝だけしかせず、自発的な礼拝は全くしないが、近所の者には優しくしている人については、天国に行く、と言いました。
我々は、アッラーの全ての創造物の権利を守らなければなりません。もし間違いを犯し、その相手の赦しがなければ、審判の日に報復が待っています。
角の無い山羊が角のついた山羊に傷つけられても報復を受けます。動物同士でも報復があるなら、人から動物はどうでしょう?
言行録によると、イスラエルの民のある女性は猫のために罰せられたとあります。彼女は、餌もやらず、水もやらず、閉じ込めたままにし、猫を死なせました。預言者様は、その行いのせいで女性は地獄に落ちたと言いました。
また別に、不義を犯したイスラエルの民のある女性の例もあります。彼女は、井戸のまわりで苦しんでいるイヌを見て、自分の靴を器代わりにして、井戸の水を汲み、イヌに与えました。彼女は不義を犯しましたが、この行為のお陰で、アッラーの赦しを得ました。
すべての創造物はアッラーの家族であり、それはアッラーの持ち物であるという意味です。アッラーは彼の創造物に対して優しく親切に接するものを愛します。不浄なイヌといえどもアッラーの創造物なのです。不浄な動物にでさえ優しくしないといけないのなら、人間に対しては言わずもがなです。
夜の旅章(17)の70番にこうあります:
「われはアーダムの子孫を重んじて海陸にかれらを運び、また種々の良い(暮らし向きのための)ものを支給し、またわれが創造した多くの優れたものの上に、かれらを優越させたのである」
アッラーはある創造物を他の創造物よりもすばらしく創りました。人間は栄誉を与えられ、素晴らしく創られたのです。ムスリムか否か、信心者か不信心か、ユダヤかキリストかなどは関係ありません。
我々は、他者の権利をまもり、優しく接し、良い行動を持って扱わなければなりません。そうしなければ、審判の日にそのことは問われます。
どんなに善行を積んだとしても、もしあなたが罪を犯せば、その善行はあなたの悪行に迷惑した人たちのところへ行ってしまいます。
相手がムスリムでなくても、もし赦しを得られなければ、罪はあなたに返ってきます。相手が非ムスリムでもそうなのですから、信心深いムスリムに対してはさらに重い罪になるでしょう。
我々は、アッラーによって選ばれた民だということを理解する必要があります。あるムスリムはその悪行によって地獄に行くことになります。
地獄に落ちたムスリムに、不信仰者は訊くでしょう
「あなたはムスリムではないのですか」
「そうです」
「イスラームの恩恵を受けたにも関わらず、我々と一緒に地獄の炎のなかにいるのですね」
「悪行が祟って罰をうけているのです」
その時、アッラーは彼らを赦し、天使を遣わして全てのムスリムを地獄から救い出すでしょう。そのときになって、不信仰者はイスラームの恩恵を思い知ることになります。
アル・ヒジュル章(15)第2節
「信じない者たちは、自分たちがムスリムであったならばと、望む時が屡々あろう」
雌牛章(2)第221節
「多神教の女とは、かの女が信者になるまでは結婚してはならない。仮令あなたがたが気に入っていても、多神教の女よりは信仰のある女奴隷が勝る。」
その女性が美しくても、どんなに裕福でも、どんなに教養があっても、そして彼女のことがどんなに好きでも、性格がよく、行いが好くても、それらのことは全て失われてしますのです。信仰心が無ければ利益を得られません。
しかし信仰者なら、もし彼の中に何も良いものがなかったとしても、ムスリムとして死ねば、アッラーの思し召しで天国に入ることが出来るのです。
自発的な礼拝をする、それ自体は賞賛される行為です。しかしそれをしたからと言って審判の日に安心は出来ないのです。「下僕の権利」は、それを犯せば審判の日に罰を受けるという重大なものです。だからこそ、イスラーム法の4分の3もそれが占めているのです。
アッラーの慈悲と祝福を持って、我々がこのことに気づき、日々の生活を送る上で他者の権利を理解し守っていくように願います。